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伝統と変革のはざまで 「糀屋三郎右衛門」7代目 辻田雅寛 PART-2

◆「お父さんが入院したから、帰ってきなさい」

大豆やこうじなど、味噌にまつわる話になると、辻田は止まらない。伝統ある味噌屋に生まれ、味噌とこうじの匂いに包まれ、味噌蔵を遊び場として育ってきた辻田は、まるでDNAにこうじ菌が組み込まれているかのようだ。しかし、彼は、自ら望んで味噌づくりの道に進んだわけではなかった。

「いつか継ぐことになるとはわかってはいたし、嫌ではなかったんです。ただ、敷かれたレールにそのまま乗るのに抵抗感があったんですね。だから、大学も理系ではあっても、発酵学や醸造学はわざわざ避けて、専攻したのはあまり関係ない化学でした。跡を継ぐのは、できるだけ先に延ばしたかったんですよ」

だが、猶予はあまり与えられなかった。大学時代、そろそろ就活が始まるという時期に、突然母から電話があった。「お父さんが入院したから、すぐに帰ってきなさい」と。辻田は驚いて久しぶりに自宅に戻った。すると、父は大病を患っていたわけではなかった。入院といっても、ただの検査入院。「騙された!」と辻田は思った。その上、茨城県つくば市にある研究機関で酵母の研修をする道まで用意されていたという。その時点から、辻田の味噌職人としての道が始まった。

◆都内唯一の味噌蔵「糀屋三郎右衛門」の伝統

そもそも、「糀屋三郎右衛門」という店の名は、辻田の先祖が現在の茨城県稲敷市で名主を務めていた時の屋号だった。天保年間に建造された土蔵は今でも残っているという。東京に出てきたのは4代目。当時は上野だったが、その後、昭和14年に現在の練馬区中村の地に味噌工場が建てられた。6代目にあたる辻田の父は、東京大空襲の真っ最中である昭和20年、戦死した叔父の跡を継ぐために郷里から出てきた。

「親父は戦後の混乱期、配給された代替原料で味噌をつくるしかなかったそうです。結婚して、それを義父に食べさせたら、『こんなまずい味噌食えるか。うちでつくっている味噌のほうがよっぽどうまい』と言われたと。それはそうですよ。地方にはまだ本物の米や大豆があったわけですから。でも、相当悔しかったらしくて、それから家庭の手づくり味噌を研究して歩いたみたいなんですよね。代替原料で悔しい思いをしたから、原料の品質へのこだわりも強いんです。そのことは家訓にもなっています」

「糀屋三郎右衛門」の壁には、父が書いた家訓がかけてある。
1、初代からの伝統を守る
2、天然の材料、ふる里のおふくろの味
3、たえず勉強、いつも研究

味噌は本来、地域の原料を使って、各家庭でつくられるものだった。それが、ふる里の味であり、おふくろの味だった。時代が進むと共に、農業分布が変わり、食のグローバル化が進み、メディアが変わり、気候が変わった。機械化が進み、適切な管理下で安定した味の味噌を大量生産できるようになった。

変わるのは世の常。時代と共に人間、そして人間を取り巻く環境も変わっていく。進歩して、変化していくのが人間だ。だが、世の中には「変わらない価値」というものがある。東京都練馬区という都会の片隅で、汗水垂らして今日も味噌を仕込んでいる男がいる。「糀屋三郎右衛門」7代目・辻田雅寛が自らの手を使ってつくり出す味噌は、唯一無二の味がする。
店の外には、大豆を蒸す匂いが立ち込めている。

取材・文 沖山ナオミ
写真 中村年孝

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