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郷愁のハモン・イベリコ 経験と知恵と情熱を込めて40年 尾島 博 PART-2

◆「それなら自分でつくればいい」

結婚して娘が二人生まれた。コンサルタントの仕事はハードだ。疲れ果てて自宅に帰ると、娘たちはすでに眠っていた。寝顔を見ながらグラスにワインを注ぐ。そんな時、いつも思った。「ここに生ハムがあれば…。ハブーゴ村で食べたハモン・イベリコ。ベジョータ。世の中にあんなにおいしいものがあるということを、日本人はまだ知らない」

一度、食肉加工業者に「生ハムづくり」を提案したことがある。尾島はスペインで生産現場を視察したし、資料も多数持っていた。日本とスペインは気候が違うとはいえ、工夫すればおいしい生ハムをつくれるはずだ。自信はあった。とにかくやってみないと何も始まらない。だが、尾島の提案に対する返答は何もなかった。

それなら自分でつくればいい! 尾島はすぐに動き出した。まずは、豚の原木(脚)を二本手に入れた。血抜きをして塩漬けにしてから、坂戸市にある実家の味噌蔵に吊るしてみた。当時、神奈川県川崎市に住んでいた尾島は、週末になると娘たちを連れて、実家の蔵に生ハムの様子を見に行った。一年後、試食したら、予想以上においしい味に仕上がっていた。味噌蔵の環境がよかったのだろうか。もちろん、ハモン・イベリコとは味が違う。日本酒に合いそうな、日本的な風味を醸し出した生ハムだった。とはいえ、おいしさのゲージは針が振り切れるほど。「よし、パーティーだ」。自宅に、知り合いのスペイン人たちを招いて、生ハムとワインのフィエスタを開催した。

◆失敗はパイオニアの宿命

尾島がナイフで生ハムをカットする。フィエスタの参加者が差し出す皿に、一枚ずつ丁寧に乗せる。口に入れて噛み締める。その瞬間、顔が緩み、笑顔が溢れ出す。「ブエノ! デリシオーソ! 」。床置きされたスピーカーからは、アンダルシア音楽のギターが流れる。セゴビアだ。ボトルが数本空く頃、キューバのソンに切り替わった。シエラ・マエストラ!
次はリオ・デジャネイロ発ショーロ。ピアソラのバンドネオンを聞けば、気持ちはブエノスアイレスだ。おいしい生ハムとワインとパン、そしてゆかいな仲間たちがいれば、どこにいても世界旅行ができる。

「生ハムをつくる男がいる」という噂はあっという間に広まった。パーティーにはスペイン銀行の支店長が来ていたから、スペイン料理店のオーナーたちの耳にはあっという間に届いた。数件の受注があった。尾島はビジネスとして、生ハムづくりを始める決意をした。1977年から仕込みを開始。営業許可、資格を取り、1979年に有限会社「セラーノ」を設立した。生産工程での失敗も多かったが、それはパイオニアの宿命。諦めたらそこまで。本業であるコンサルタントとして、自分の新ビジネスを客観的にみることができた。

尾島がひとつだけ譲らなかったことがある。それは、「良質の国産豚肉と塩だけを使って長期熟成させてつくる」ということ。シンプルではあるが、それはとても難しいことだった。1980年代、「サバティーニ・ディ・フィレンツェ」(東京・銀座)、「アントニオ」、「イル・ド・フランス」、「レンガ屋」など、有名レストランが、尾島の生ハムを競うように扱うようになった。まだ輸入解禁前。本当の生ハムの味を日本人が知らなかった時代の話だ。本格的なグルメブームが到来し、尾島は6~7年、並行的に日中はコンサルタント業、夜間、週末は趣味の副業と仕事を続け、ようやく1980年後半から生ハムづくりに専念ができるようになった。

◆82歳の夢

確実に、ゆっくりと時間が過ぎる。麹菌が泳ぐ空間を16か月、あるいは24か月という時間をただ待って豚の脚はそこにいる。40年にわたる、尾島の経験と知恵と情熱が込められたこの空間で、ほんの僅かな変化をしながら。あたりは暗くなる。職人たちが家路に着く頃、フィエスタが始まる。豚の脚たちはラインダンスを始め、その後、一斉にタップを踏み出す。

「お金はなければ銀行が貸してくれるけど、時間は誰も貸してくれない。そういう仕事を私はやっているのです。私の人生、残り時間は限られているけど、まだまだおいしい生ハムをつくっていきたいですね。そんな夢を持って私は生きています」
82歳で夢を語る尾島 博。やはり、ただものではない。「セラーノ」は、二人の娘が継ぐことになっている。

取材・文 沖山ナオミ
写真 中村年孝

デリシャスタイムのレストランプロジェクト

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