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郷愁のハモン・イベリコ 経験と知恵と情熱を込めて40年 尾島 博 PART-1

尾島 博、82歳。国産生ハムのパイオニアであり、その道ではレジェンドと呼ばれる存在だ。1977年、埼玉県坂戸市に純国産生ハム工房「セラーノ」を創業し、いまだ現役の生ハム職人として、おいしさを追求している。スペイン留学時代にハブーゴ村で食べた生ハムの味が忘れられず、日本でその味を再現しようとしたのが、そもそもの始まりだった。

◆「コビーも尾島 博のハムが好き」

セラーノ工房、一階のドアを開くと、そこはラテンの香りが漂っていた。フラメンコダンサーが赤いドレスの裾をたくし上げ、床を強く踏み鳴らす。ギタリストのラスゲアードがクライマックスに達し、「オレ!」。二階に宙吊りになっている豚の脚が一斉にタップを踏む。夜な夜なそんな世界が繰り広げられているのではないかと想像してしまうほど、逆に静か過ぎるスペイン風サロンがそこにあった。

壁にはサルヴァドール・ダリ、ジョアン・ミロ、ハビエル・マリスカルのポスター画が並ぶ。
「ハビエルはバルセロナオリンピックのキャラクター、コビーのデザインで有名な人ですよ。バーで知り合いましてね、うちのハムを食べさせたら、この絵を描いてくれたんですよ。『コビーも尾島 博のハムが好き』と書いてあります。ダリとはスペイン留学中に日本のテレビ局からの依頼で、ドキュメンタリー番組の制作および出演の交渉役の仕事で接触した期間がありました。その時に、『日本で絵を売ってくれないか』と頼まれたりもしたんですよ。もちろん、すぐ断りましたけどね。そののち何年かたって、日本人女性がダリの代理としてプロモーションをしていました」

尾島 博、ただものではない。

「ハモン・イベリコ」という種類のスペイン産生ハムが、日本でもてはやされるようになって久しい。その中でも「樫の木林に放牧されてドングリの実を食べて育った豚」と言われる最高級品「ベジョータ」は話題になり、日本のスペインバルで何度オヤジたちのうんちく話が繰り返されたことか…。ベジョータ含む、ハモン・イベリコについて、初めて日本で『スペインの食卓―豊饒の海と大地』(柴田書店1991年発刊)を通して詳しく紹介したのが尾島だ。

◆東京オリンピックではVIPのアテンドを

尾島は鎌倉時代から続く坂戸市の旧家に、8人兄弟の末っ子として生まれた。家は複合農家で、敷地の一部では酪農も営んでいた。「三男坊というのは後継ぎとして期待されているわけでもなく、自分で開拓しないと生きていく道がないわけですよ。学生時代、大宅壮一の『世界の裏街道を行く・南北アメリカ篇』(文藝春秋新社1956年発刊)を読んで、夢がバーっと広がりましたね。中南米に憧れました。日本を飛び出して海外に行きたいという気持ちが芽生えたのは、その頃からでしょうかね」

高校卒業後、積水化学工業に就職したが一年で退職。青山学院大学商学部の二部に入学し、同時にスペイン語の勉強のために上智大学の聴講生となった。昼間仕事をして夜働くというよりも、昼夜勉強し、その合間に仕事をした。いわゆる苦学生であったが、高度経済成長時代のまっただ中。夢は果てしなく広がり、勉強するモチベーションとそのための時間は、いくらでもつくり出すことができた。

卒業後、PRという意味が入社試験の問題に出された時代に、最先端ビジネスのPR会社に就職。時は1964年の東京オリンピック前である。PR会社というのは政財界、メディア関係のキーパーソンとの人脈がないと難しい仕事。夜は毎晩のようにクライアントを接待。高級レストランに通っては、産業界の裏情報を誰よりも先に知り、同時に舌も肥えていった。国内だけではない。尾島は東京オリンピック前に研修という形で、海外渡航許可申請、旅券発行申請、航空券手配、ホテル予約などを自力で行い、東南アジア各地にあるエージェントを周って歩いた。1964年東京オリンピックでは、海外VIPのアテンドとして活躍した。

◆チェ・ゲバラとの遭遇、そしてマドリードへ

1965年、尾島はスペイン大使館が募集していた給付金付き費留学生制度に応募して合格。PR会社を退職し、片道切符を握りしめてマドリードに向かった。途中、乗り継ぎでモスクワに降り立ち、「赤の広場」に行ってみた。その時の光景を尾島は今でも忘れない。「レーニン廟」の前を軍服姿で歩いていたチェ・ゲバラを目撃したのだ。もともと中南米に強い憧れを持っていた尾島にとっては大事件だった。それをきっかけにキューバへの興味はさらに強まり、キューバの伝統音楽やサルサを愛するようになった。いや、この時の目的地はもちろんマドリード。だが、彼にとってスペインは、憧れの中南米への入り口という位置づけだったのだ。留学先のマドリード大学では、中南米経済を専攻した。

勉強の合間に、日本から来る出張者や視察団を案内する仕事をした。ある日、尾島は、鉱業関係の仕事に携わる日本企業の要人の案内役として、世界的規模のリオ・ティント社の銅鉱山に同行。セビリヤの近くにあるハブーゴという村のゲストハウスに泊まったが、そこで出された生ハムに感激した。蹄の黒い「ハモン・イベリコ」。もちろん、それまでもスペインで何度も食べる機会があった、ただ硬くて塩っ辛いという印象しかなかった生ハムがへの思いが一変した。ウェルバ産の生ハムは別物だった。脂に旨味がある絶品! 以降、尾島は生ハムに取り憑かれ、意識して生ハムを食べ歩き、生産現場を見て周るようになった。

◆大阪万国博覧会に向けて帰国

1970年、大阪万国博覧会を契機に、尾島は5年間の留学生活にピリオドをうち、日本に帰国した。来日する客たちの通訳ガイドをするためだった。万博では、世界のパビリオンで各国の料理を食べることができた。この時に、各国パビリオンの外国人シェフのアシスタントとして働いていた日本人シェフたちが料理留学をし、その数年後に帰国して1970年後半から日本でのグルメブームが巻き起こった。

万博の喧騒が終わった。さて、次のステップだ。尾島はスペイン留学時代に知り合った友人と、コンサルタント会社を六本木に立ち上げた。
「業務内容は米国企業の日本市場参入に際しての市場調査、業務提携の斡旋、OECDの雇用創出プロジェクト、新製品・新事業コンサルテーション等々…。時代の流れに従って、いろんな仕事をやりましたね」

 

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