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人をつなぎ、味をつむぐ 三浦の食財案内人 坐古 摩美 PART-2

◆きっかけはフィレンツェでの出会い

きっかけはフィレンツェでの出会いだった。5年ほど前に、坐古は、息子の朝樹を訪ねて、イタリアに向かった。朝樹は料理人になるために、フィレンツェで修行中だった。同じアパートには、すでにプロの料理人として現地で働いていた村山浩一(むらやま・こういち)が住んでいた。朝樹が世話になっていたこともあり、滞在中、坐古は村山と話す機会も多く、朝樹を入れて3人で、イタリアのこと、食のことなどを、夜遅くまで話し込んだ。

村山は日本に帰国してから、店を持つことを計画していた。とはいえ、日本で入手できるイタリア野菜の種類は限られているし、単価も高い。さらに、イタリア料理は素材が命なので、新鮮な野菜を入手できる経路を見出さなくてはならない。

坐古が三浦市出身であることから、「三浦の畑でイタリア野菜を栽培して、その近辺に店を出すのも面白いかも」という話で盛り上がった。いわゆる“キロメートル・ゼロ”。すぐ行動に移す坐古は、イタリア野菜の種を数種類買って、日本に持ち帰った。親戚の農家に試しに育ててもらったところ、それなりにおいしくでき上がった。「これはいけるかも!」
坐古は、農家に知人が多い後輩に「オーダーメイドの野菜をつくってくれる農家さんいないかな?」と相談した。そして紹介してもらった生産者が、鈴木だった。

◆「おいしい三浦野菜をもっと広めようよ」

村山は3年前に日本に戻り、現在は西新宿に店を構えている。新鮮な三浦野菜を使った本格的イタリアンを出すワインバーということで、評判も高い。もちろん、野菜は坐古を通して入手している。

もともと坐古は会社勤めをしていて、野菜の仕事は本業の合間にこなしていた。だが、村山が、「おいしい三浦野菜をもっと広めようよ」と知り合いのシェフを紹介してくれているうちに、坐古の野菜を扱う店が増えていった。

坐古自身も、この仕事のニーズを実感し始めていた。「大規模流通に載せることができない、小回りの利く流れが求められている」と。坐古は、ただ料理人と生産者をつないでいるだけではない。野菜のプロデュース、コンサルタント的な役割もこなしている。さらには、自らの手で収穫することもあるし、野菜の泥落としもする。物流をこなしながら、出先で店舗の看板チョークアートを頼まれることもある。

坐古は会社を退職して、野菜を扱う仕事を本業にする決意をした。名刺の肩書には「三浦の食財案内人」と入れている。今後の課題は物流だという。毎日何台ものトラックが三浦と東京間を往復している。トラックの隙間に野菜を載せてもらうことはできないだろうか。そうすれば、扱える野菜の量を増やすことができる。また、意外と労力がかかるのが、泥を落として野菜を整える作業だ。その仕事を地元の高齢者に担ってもらうシステムはつくれないだろうか。坐古は次のステップに進むための構想を、日々思い巡らしている。

◆通訳になりたかった

坐古の両親は、三崎で中華料理の大衆食堂を営んでいた。国外からの船が三崎港に入ると、外国人の船員たちが毎日のように店にやってきた。幼い頃の坐古は、忙しく働く両親の傍らで、じっと彼らを観察していた。「なんて話しているのだろう。おいしいっていってるのかな?」

そんな環境で育ったためか、坐古の将来の夢は通訳になることだった。実際、語学は好きだったが、まずは食べていかないといけなかった。結婚して家庭を築いたが、30代後半に離婚。それからはただ、がむしゃらに働いた。息子には好きな道を歩いてもらいたかった。だが、息子が「高校を卒業したら、イタリアに料理の勉強にいきたい。将来は料理人になりたい」といい出した時は仰天した。

坐古はふと、考えた。「将来、通訳になりたいと思ったのは、人をつなぐことが好きだったからではないだろうか」、と。坐古の仕事は、おいしい味をつむぐために、人と人をつなぐこと。そこにやりがいを感じられるから、背負子の重さと50キロメートルの距離は、坐古にとっては限りなくゼロに近いのだ。

取材・文 沖山ナオミ
写真 中村年孝

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